第2回 別れたないし、一緒に行くわ

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子どものころ、お父さん(近江二郎)はどんな存在でしたか?

何やろ? 何でも買ってくれる人。まあ、何でもっていっても、そのころ貧乏でしたから、ちょっとのことでも嬉しかったですけど。必ずミスタードーナツ買ってくる人。で、朝、起きたら、もうおれへん。

時々、和歌山の家へ帰ってきて、夏休みと冬休みだけ劇団のほうに僕が行くっていう生活でしたから。そのときも、僕は舞台には出てないです。

うちの父親は、踊りが踊れないんです。お芝居はできるんですけど。昔の役者さんは、そういう人多かったみたいです。楽器ができる人は多いですけど。

昔はカラオケがなかったんで、どこの劇団も全部、生バンドだったんですよ。昭和30年代、40年代は、6人編成くらいの劇団お抱えのバンドを持っていて、劇団の座員さんも30人とか40人とかいうのはザラ。

テレビが出てきたときに、大衆演劇も人気がなくなってきて、バンドも抱えられなくなって、歌を歌うときどうしよってなって。じゃあ、自分たちで演奏したらいいんじゃないかと。だから僕らの年代より上の役者さんは、みんな楽器ができるんです。僕がぎりぎり。そんとき僕もドラム覚えたんで。

うちの父親もドラムやってたんですけど、手と足が全部一緒に動く人やったんです(笑)。それは覚えてる。うちの母親はギタリストやったんで、先頭きってギター弾いて、みんなついて来いよみたいな感じで。うちの姉ちゃんがエレクトーン。母親が「うん」って合図したら、父親は手と足と一緒にジャン、って感じ(笑)。

和歌山の家から30分くらいのとこに劇場があって、父親はそこの興行中に亡くなったんです。一年半くらい前から余命切られてたんで、無理矢理頼んで、そこに半年間の長期の仕事を入れさしてもらったんですよ。本人には知らせてなかったですけど。僕は聞いてました。小学校6年のときです。もうお父ちゃん長くないよって、こっち呼ぶからねって。3カ月って言われてたけど、1年生きたんです。

和歌山時代のお母さん(近江竜子)は、舞台からは遠ざかっていたんですか?

母親はね、僕が小学生のときは家でずっと内職してました。負けず嫌いやったんで、いったん内職始めたら地区で一番にならないと気が済まない。俺が覚えてるので、布団袋縫うのと、靴下のプレスと、アメをブーケみたいに巻くのとか、あと電話カバー。家のなか、ダンボールだらけです。仕事が早いからって、業者さんがいっぱい持ってくるんです。

一回だけ、母親が酒飲んで、ぐでんぐでんになったことがあったんです。よう考えたら、父親が劇団の女に手だしてからいうようなときだったと思うんですけど。

父親が死んで、山根演芸社の先代社長が、このままだと劇団としてまわせないと。そのころはもう、父親は鹿島劇団から独立して、近江劇団を再建してたんです。ほかの人を座長に立てて。母親が劇団に戻らなかったら、名前が消えちゃうってなって。舞台に復帰することになったんで、どうする?って聞かれて。うちの姉ちゃんが和歌山にいたんで、残って姉ちゃんのとこで暮らしてもいいよって言われたんですけど。近江新之介の母親ですね。いまでも住んでますけど。別れたないし、一緒に行くわって即決して。それまで転校したことなかったんで、転校生活が始まったわけですよ。小学校六年生から。

そしたら、学校が嫌になってきたんです。勝手に抜け出して遊びに行ったりしてたら、それがバレて。学校行かんかったら、舞台の仕事手伝いなさいっていって。2年間、後ろで照明やってました。小学校の最後から中学1年生くらいまで。一応、学校に顔だけ出して、1時間行って帰ってきてそのあとはずっと手伝いです。

2年間やったから、おかげで全部、芝居とか舞台のネタを覚えたんですね。2年見てたら、覚えてしまいますよ。毎日違うことやるといっても、昔の興行って、大阪は15日間だったんで、同じ芝居を何回も観ることになるんですよ。

そのころも、舞台には立ってなかったですけど、最後は根負けしたみたいな感じで、じゃあ出ようってことになりました。14歳のときです。でもその前に、うちの父親の一周忌の追善座長大会っていうのがあって、そこで袴はいて一回出てるんですよ。やるつもりなかったんですけど、当時の錚々たる座長さん連中が、やっぱり喪主が何かせなあかんっていうて。亡くなりはった美里英二座長とか、いまの僕の嫁の父親(浪花三之介)とか。一曲歌えるか? って言われて、そのとき歌えなかったんですよ。唯一歌えたのが「俺ら東京さ行ぐだ」。学校ではやってたんですよ。長靴はいて、ハチマキして歌った覚えがある。何も知らんからできたんですけど、あとで母親に聞いたら、あんたんとこの息子、度胸あるなって言われてたらしい。

父の追善座長大会で「俺ら東京さ行ぐだ」を歌う。三つ子の魂を思わずにはいられない。

その2年後か3年後に、根負けして舞台に立ちました。女形がデビューです。一発目から女形です。うちの母親から、やるなら女形専門から始めなさいって言われて。女形から始まったら、男をやったときに色気がでるからって。股に下敷きはさんで踊ってました。女の人は股を開かないからって。

そのころ、いろんな人が劇団に出入りしてて、うちの劇団の、昔のバンドリーダーが来てたんで、その人からキーボード、ギター……楽器を全部教わって。うちの母親も、そういうことはよう覚えとかなあかんって。もともと音楽だけは、成績よかったんですよ。うちの母親は、字は教えてくれなかったんですけど、音符の読み方をごっつ教えられて、ちっちゃいときから。小学校入るときには、音符、全部読めたんです。男子生徒って音符読めないでしょ。でも僕はドレミファソラシド全部書けたから、友達にも頼まれて教えてました。

それで、音楽に興味持って。ドラムを専攻しだして音楽にはまって、最終的にミュージシャンになりたいっていって家出したんです。

16、17歳くらいのときですわ。

(2020年8月29日 堺市自宅特設スタジオにて)

取材・文 佐野由佳

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