第4回 たいした劇団じゃなかったし

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抜群の記憶力で、劇団の歴史を語る古都乃竜也座長アーカイブはまだまだ続く。父亡きあと、人見多佳雄劇団はいかなる変遷をたどったのか。ハチマキかあちゃんの、ファンキーすぎるアナウンスについても語ります。

「8人兄弟のうちわけは、一番上が、姫路に住んでるお姉さん。役者ではないですけど、時々、裏の手伝いに来てくれてます。次女が瞳マチ子、三女が翔太郎たち(紅翔太郎、紅優太郎、一見大弥、紅洋太兄弟)のお母さん、四女が長月喜京、長男がいまはもう役者をやめてますけど、長月さんと双子の中村光伸、次男が太紅友希、三男が好太郎座長、四男の末っ子が僕」

今年8月の大阪・高槻千鳥劇場で、兄や、甥っ子たちと。舞台に収まりきらない花魁ショー。

「おとうさんが亡くなって、マチ子さんが人見劇団を継いだんですけど、そのうちマチ子さんが結婚して、翔太郎のお母さんと長月さんが、姉妹座長で『花岡劇団』っていうのをつくってね。2、3年やったのかな。そのときに篠原淑浩会長のお父さまにお世話になって、3年くらい、関東のヘルスセンターを回らしてもらいましたね。そのあとに、マチ子さんのだんなさんが座長になりたいというので、その方が峰好太郎を名乗って、『峰好太郎劇団』になりました。その後、峰好太郎さんが二代目人見多佳雄を名乗るんですけども、僕が初舞台を踏んだころに、急遽、劇団を去ってしまいまして」

姉・瞳マチ子(左)と長月喜京。

「その次の月の公演場所が、浜プロさんが取ってくださっていたリステル猪苗代。そこの公演も座長がいないから、急遽ポスターをつくりかえて、代理の座長つくって1カ月やりました。そのあと、12月だったと思うんですが、公演場所がもうなくなってしまったので、不二浪のおじさん(不二浪新太郎)が仲に入って、1カ月間、めんどうをみていただく劇団を確保してくださった。栃木県の宇都宮の近くに、上延生(かみのぶ)ヘルスセンターっていうのがあって、そこの12月公演に出ていた、劇団千章さんの前身の市川千太郎劇団、まだ千章先生が五代目市川千太郎として座長さんだった時代で、六代目さん、いまの劇団十六夜の市川叶太郎座長が市川千歳さんを名乗っていたころで18歳、市川良二さんが19か20歳、亡くなったひろし兄さんが20いくつだったかな。そのときの千章先生のところに、劇団ごと1カ月あずかってもらいました。お芝居と舞踊ショーがあって、お食事もつくからって。劇団千章さんとはそのときからのご縁ですね。僕が11、12歳。良二座長がね、19歳のお兄さんだったころ(笑)」

「そこからさらに半年間、劇団の公演場所がなかったので、いろんな劇団に行かせてもらいました。楽屋と宿舎が広いところにあずけてもらって、劇団の人数が少ないところに足す、っていう感じですよね。上延生ヘルスセンターのあとは、豊橋健康ランド。劇団を分けて、こっちに5人、こっちに3人とかもやりましたね。それからかな、半年くらいしてから、九州の野間口社長がコース取ってくださって、また劇団としてやるようになったんですけど。大変だったと思いますよ。僕は子どもながらに、側で見ててね。おかあさんが劇団やっていくにしても苦労したんじゃないですかね」

竜也少年を取り巻く大人のなかには、いま劇団の花形をつとめる紅ア太郎の父もいた。実の兄より、かわいがってもらったという。

古都乃座長のインタビューの準備をしていると、稽古の合間にやってきて、おちゃらけて笑わせる紅ア太郎花形。芸達者は父ゆずり?

「ア太郎くんのおとうさんは、もともと埼玉の劇団の人で、やっぱり家族で劇団を持ってて、お兄さんが座長さんでね。お父さんとうちの劇団に手伝いに来てくれてた。それでうちのお姉さん(長月喜京)と交際するようになって、それがご縁でうちの劇団に移籍することになったんですよ。そのときにおかあさんがつけた名前が紅蝶二(くれないちょうじ)。僕が10歳くらいで、蝶二さんは18歳。車の免許を取って、すぐ来てくれました。骨太な、役者らしい役者さんで、若かったけど、どんな役でもできました。老け役も悪い親分の役とか、もちろんいい役も。オールマイティに、なんでもこなしてましたね。若くして亡くなってしまって。何年になるかな。実の兄の中村さんより、ア太郎くんのお父さんと一緒にいた時間のほうが長かったかもしれない。かわいがってもらいました。長兄の中村さんはね、劇団を出たり入ったり。いまはペンキ屋さんで、若い衆抱えてめんどうみたりしてるらしい。なんでもできる器用な人で、パチンコの屋の店長だったときも、勉強して釘師になろうかっていうような。役者としても器用だったからね。上手にこなしてました」

2003年発行の劇団パンフレット「一見劇団」から。中央右が長男・中村光伸、左が古都乃竜也。

いまや兄弟だけでなく、兄弟の子や、その子どもも含めた大所帯の一見劇団。前にも書いたように、劇団はほぼ血縁で構成されていて、嫁という存在がいない。そして、よそから来た夫という存在もいない。役者であるふたりの姉たちは、よそに嫁ぐのではなく、婿を取るような形で劇団に残り、その夫も見送っていまに至っている。

「僕が思うに、娘を嫁がせなかったのは、おかあさんが外に出したくなかったんじゃないかな。強い人だったからね。でなきゃ、普通は嫁がせますよね」

ハチマキは「巻くと頭がシャンとするから。白い乾いたタオルでないと」と語った紅葉子太夫元。どこへ行くにもこのスタイルで。

ハチマキかあちゃんの異名をとった紅葉子の、白いタオルのハチマキは、頭に巻いてかれこれ50年になるとかつて小誌のインタビューで語ってくれた(2020年9月9日トピックス参照)。夫を亡くして、劇団を率いて戦さ場に向かう、それは兜のような戦闘服だったのかもしれない。人には言えない苦労も、あのハチマキのなかにギュッと納めていたはずだ。

「ハチマキね。うちは女やけど白組や、ってよく言ってました(笑)。おかあさんの、あのアナウンスですか? たしかにね、ほかの劇団では聞かないですよね。『贈り物、ありがとうございました』とか、いまよその劇団は言わないもんね。昔はそういう劇団も多かったみたいですけどね。そういう意味では昔風なのかな。踊ってる人にかけ声かけたり、ハンチョウかけたりね。賛否はありましたけどね。うるさいとか、踊りの曲が聞きたいのに集中できないとかね。でもこれは、おかあさんがやってきたし、おかあさんの劇団だから。好きなようにしたらいいと思って。関東に来たときには特にね、おとなしい感じの劇団さんが多かったから、お客さんはびっくりしたかもね。うちのおかあさん、よけいなことをするのが好きだったから」

そんなよけいなことのなかにこそ、苦労を力に変えてきた、紅葉子のサービス精神と情がある。舞踊ショーの最後にいつも「これより、ふぃーなる(ファイナル)ステージ」と流れた、あの独特のアナウンスが、時々とても懐かしくなる。

大変な時期を乗り越えて、一見劇団として関東に来たのは、古都乃竜也が二十歳のときだ。

「当初、関東公演は3カ月っていう契約だったんです。そこでまた九州に帰るか、大阪に行くかっていうことだったんだけど、そのまま関東でお世話になることになって、21年。篠原淑浩会長が、あずかるから、責任持って公演場所を確保しますからって言ってくださったのを覚えてます。関東に来て、人気が出たっていう自覚もなかったですね。ただ、浅草も、十条も、劇団とすれば一度はあがってみたい劇場だったから、そこをひとつずつクリアさせてもらった、また来年も、っていう気持ちしかなかったね。うちは、そこまでたいした劇団じゃなかったし。でも、年間12劇団しかのれないところに、選んでいただいたっていうのは嬉しかった。そのぶん頑張らないとなって思いました」

(2022年2月19日立川けやき座・3月12日川越湯遊ランド)

第5回へつづく!

取材・文 佐野由佳

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