第3回 立ってるだけでエラそうに見える

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晃大洋(こうだいはるか)の楽屋には、夫であり、剣戟はる駒座総座長津川竜の小さな仏壇がある。2020年に50歳で亡くなった。この3年の間、朝の勤行は欠かしたことはないという。

「たまにね、忘れて、あ!って昼過ぎになったりしますけど。必ず」

一角には思い出の写真コーナーも。

いまでも気持ちは一緒にいるという。

「津川さんがいなくなった認識が必要なくて。体がなくなっただけで、いるっていう感覚。家族はみんな。なんやろね、ほんまにおるっていう感覚やから。ただ、劇団のなかの役割分担は自然に変わっていきますよね。津川さんがやってた仕事のなかの、演目決める、スケジュールを決める、外の劇団や本家さんとやりとりしたり、電気関係の照明とか映像は鵣汀が。劇団の日々の客入りを確認したり、舞台道具をそろえたり、踊りの稽古をおおまかにみる舞台監督や、荷物のことは祀武憙が。最終的に、兄貴こんでいいですか? ああ、これでいこう、みたいな感じで。おとうさんが担ってたところをふたりで割ってくれてます。結構、わたしにはなにとて、ささないですね。口出しされるのイヤなんやろね。わたしもいつ死ぬかわからんし、そのとき子どもふたりが困ったらあかんから、手出しせんととりあえず任してる。だからこれといって、津川さんがいなくなって、わたしがしんどくなったっていうのはないです」

2024年2月の津川竜メモリアル&バレンタイン公演では、スライドショーのように映像が変わる背景幕の津川竜と相舞踊。

剣戟はる駒座は、津川竜と晃大洋が、1997年に旗揚げした。当時4歳と2歳のふたりの息子と、4人で始めた劇団である。

「もともとはね、座を持とうなんて思ってなかったんですけど、お兄ちゃん(鵣汀)が、3歳か4歳のときに、『僕、座長になるからさ、パパ、先に座長やってよ』って言い出したんですよ」

長男鵣汀のこの言葉は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった人気座長恋川純弥の舞台に憧れたからゆえの『座長になりたい』だったのだが(詳しくはこちらから)。しかしきっかけはともかく、座長になりたいと言った息子の夢を、両親は、なんとかかなえてやりたいと奮闘する。

「津川さんは、自分が描く役者人生のなかに、座長になる通過点はあったと思うんですよ。いずれ座長になってみたいというのはね。でも旗揚げしようとかは、そんな具体的に思ってなかったと思いますね。息子が、鵣汀が、そう言ったから、旗揚げっていうことを考えたんだと思います。息子の夢をかなえてやりたいって。わたしは、無理や、おとうさん(勝龍治)も劇団やってるわけやし。わたしらだけで、親子3人や4人で、誰が来てくれる? っていう話になるじゃないですか。人数も集められないし。そしたら津川さんが、『いや、息子の夢をかなえてやりたいから、一日でもいい。一日でもええから、座長やっときたい』って。それは一生座長でおりたいとか、権力欲とかそんなんではなくて、息子が座長やりたいって言うてるから、僕が一回座長になっておかないとっていうことだったと思います。無理なんはわかってるし、もしかしたらポシャるかもしれへんけど、一緒にやってくれるか? ってことやったんで、じゃあ一緒にやりましょか、って」

津川竜は、1970年の生まれ。父親も大衆演劇の役者だったという。

「津川さんいわく、親父は中途半端な役者やったと。役者にもなれない、普通の人にもなれない人で。その人のおとうさんも役者やった。劇団も持ってたらしいおじいちゃんは立派な人やったって聞くけど、その息子であるおとうさんはふうてんで、どうにもならんかった、そのせいで自分は苦労したって。津川さんは座長の子ではないんです。でも、『先生に会って、先生のとこに弟子入りさせてもらってから、本格的に自分でやるって決めたから、親父は関係ない』って言うてました」

先生とは、二代目小泉のぼる。現在、剣戟はる駒座の総帥をつとめる勝龍治の弟であり、勝とともに嵐劇団を創設した人気役者だった。その芸に惚れて、津川竜が嵐劇団に入団したのは15歳のとき。そこで、同い年の晃大洋とも出会った。

「初めて会ったのは嵐劇団の楽屋で、彼は3月劇団に入ったばっかりだったんですよね。4月になって、わたしは高校の入学式の日に、おとうさん(勝龍治)に高校の制服を見せに行ったんですよ。オーエス劇場におったので。そしたら、サラシ、キマタで頭きれいにセットされて、楽屋のすみに体育座りしてる若い子がおるんです。わたし初めてだったので、心のなかで(おー!新人)みたいな感じやったんですけど、向こうもわたしにしゃべりかけられない感じで。で、一緒に裏方で入った津川さんのおかあさんが、玄関口で草履そろえたり、台所の片付け手伝ってはったので、ふたこと、みこと話して。わたしが太夫元の娘やったから、別になにもできなくても、ちゃんと挨拶してくれるんですよ。若い座員さんたちも、わたしのことはお嬢さん扱いじゃないですか。だからわたしが太夫元の娘やっていうのは、津川さんも最初に会ったときからわかったって。でもぜんぜん知らん人やし、声かけていいかわからんしって。学生服着てるし。次に会ったのは夏休みやったんですよ。夏休みは毎年、父のところに遊びに行ってたので。今回は金沢ですってことになって、田舎もないし、1カ月くらい劇団におろかってことで。そしたら彼が、伸びた髪にパーマあたって、ちょっと悪そうになってたんですよ。歌舞伎役者の子みたいなんから、急にヤンキーみたいになってて。それが似合わない。上の人からもらう服とかを着てるから。15や16の子がするような格好じゃないわけですよ。ダサイなーって思って見てたら、そのときのひとつのお芝居が新派やったんで、地頭で出なきゃならない。それで散髪したら、なんか、見栄えが変わったなーって思って。わたしもその月は人数も少ないから、娘役で芝居を手伝うことになってて、若い座員さんばっかりの公演やったんで、それで仲良くなったんです。で、夏休みが終わって、わたしは学校に行くので帰ったら、さみしいのか、電話がかかってくるようになって。ずーっと電話でやりとりしながら1年間くらい。気ぃついたらおつきあいしてるような感じになってました」

晃大洋、17歳。休みのときは、嵐劇団で舞台の手伝い。役者の道を親に猛反対されながら、運命の人・津川竜と毎日、電話していたころ。

このころ晃大洋は、役者になりたいと言って両親から猛反対を受けて高校進学を決意した時期だった(詳しくは前回参照こちらから)。そこにはからずも登場した津川竜の存在が、人生を大きく変えて行くことに。役者になるべくしてなった晃大洋の、運命の出会いだった。

「役者になる夢は仕方ないからあきらめてたら、いうたら役者の彼氏ができてしまったわけですよ。1年くらいつきあってるうちに、うちの親が、役者とつきおうてるぞと、しかもうちの若い衆やと。どうするつもりやと。たった1年でね、16、17の娘に向かって、しのごのつけろという話になるわけですよ。バレるとかじゃなくて、毎日電話かかってくるし、誰や? っていうことになるじゃないですか。冬休みとか春休みとかに、その期間、劇団に行くと、仲いいじゃないですか。仲良しじゃないですか。でもまあ、ふたりきりっていうことはないんですよ。たいてい、うちのいとこと津川さんといつも3人一緒やったんで。歳が近いから。そんな感じでおつきあいしてたら、お前は役者の嫁になるんかと、両親から。せっかく高校行ったんやから、役者とおつきあいせんと、普通の人とおつきあいしなさいと。わたしもそうやなあって思いながらも、役者なりたくてしゃあなかったから、おかあさんにこんなん言われてんって津川さんに言ったら、『将来、僕のお嫁さんになるんやったら、早く役者やったほうがええよね』って。そうか、役者になるきっかけなんだなこの人、って思って。同じころ、もし私が彼と結婚するようなことになったら、そんなことのために学費を出して、高校行かしたくないってうちの母親が言い出して。じゃあわたし、役者になりますーって。おつきあいやめたらどうすんの? とかいろいろ言われたんですけど、わたしは心のなかで、役者になれたら、もし津川さんとお別れしても、役者はやめんでいいやろなって思ってたから。自分のなかの優先順位としては、役者になりたい、親大事、それから、友達、彼氏、みたいな感じやったから。それまで男の人とおつきあいとかってそんなになかったから、これがおつきあいするってことなんやなっていう感じやったんです」

本格的に役者の道に進むことを決意して、2歳からの幼なじみと高校の仲間と、最後に遊園地に遊びに行ったときの一枚。この数日後に、劇団に入り役者になった。

結婚したのは二十歳を過ぎてからのことだ。

「座長であるおじさん(二代目小泉のぼる)にしても、津川さんは劇団の有望な若い役者やし、一番がんばらなあかんときやから、おつきあいを止められるわけですよ。今日限り、おつきあいはナシなみたいな。うちの父親はほったからしでしたけど、おじさんは責任あるから、自分の弟子やし。間違いあったらどうしよいうくらい焦ってたんやと思うんですよ。ふたりとも、もっと芸事に打ち込まなあかんと。打ち込んでるんですけど、あんまり仲良しやから。歳も近いし。18くらいになったら、おまえら結婚せえへんのか? って言うんですけど、わたしにしたら、まだ18やのにとか、まだ10代なのにとか思ってたんです。したら20歳になったときに、津川さんが結婚するっていう意志をかためはって。で、結婚したいです、っていう話をしたら、まわりもやっと安心したみたいで。なんや、っていう感じで普通にオッケーやったんですけど。今度、わたしのほうが、役者さんって女性がらみのうわさとかもいっぱいあるじゃないですか。ほんまに大丈夫かしら、無理かなとか思って、結婚、1年待ってもらったんですよ」

20歳のころ。嵐劇団の舞台で。

念願の役者への道も歩き始め、嬉しいはずの結婚だったが、船出の気持ちは複雑だったという。

「そんな感じで一緒になって、さらに石橋叩いて、式あげるまで1年、籍入れるまでに3カ月。おこられましたね。3カ月もたってまだ籍入れてないんかーって。子どもも1年くらいできてなくて。お前ら、いつ子どもできんねん、くらいの感じでした。わたしはわたしで、子どもできたら別れられへんみたいな気持ちになってたんで。なんでそこまで石橋叩くねんって父親が言うたとき、津川さんが、僕に信用がないんでしょうって(笑)笑いながら言うてましたけど。うーん、なんだろ、津川さんが、わたしが太夫元の子やから一緒になったんじゃないかって、不安になってました。津川さんは、すっごい自分の師匠が大好きやったんです。のぼるさんがね。のぼるさんのそばに一生おりたいから、わたしと結婚したんじゃないだろうか、と思うくらい、のぼるさんが一番やったんです。うちの父親のことも大好きやったし。だからこの兄弟と一緒におるためには、わたしと結婚するのが一番やったんかな、っていうひがみ根性がわたしのなかにあって。そんなに愛想ある人じゃなかったし、わたしらもそんなベタベタやなかったんですよ、当時はね」

30代のころ。

「それと結婚したら津川さんがすごい厳しかった。ほんとに。結婚した次の日からコロッと変わったっていうくらい、めちゃくちゃ亭主関白で。絵に描いたような。彼のなかにも、座員の自分が太夫元の娘をもらうっていうプレッシャーもあったと思うんですよ。わたしを、わがままな娘やと思ってたと思うし。やっぱりみんなにちやほやされて大きくなってると思ってたみたいで。結婚する前は、おつきあいしてても偉そうに言う人じゃなかったんです。でも結婚したら、わたしのひと言ひと言、人に対するものの言い方とか。自分が恥をかくっていうのがあったのか、その言い方は間違ってる、あなたは太夫元とか、座長の家の育ち方をしてるから、そういう考え方をしてるやろうけど、いち座員はそういうことは言わないよ、とか。なにもしなくても、なにも言わなくても、座長の娘っていうだけでも威圧感あるよ、立ってるだけでエラそうに見えるって。だからもっと丁寧に丁寧に、あんたは僕のお嫁さんになったんやからって。最初のころ、よく注意されました。わたしも、みんなの対応がころっと変わった感じがしたんです。なんや知らんけど、いままでと全然違うって。冷たく感じた。それもある意味、ひがみ根性ですけどね。特に外に出たときに、おとうさんとおったら、普通にわーっと話しかけてもらえるものが、津川さんと一緒におると、みんな知らん顔して挨拶もしないっていう感じやったんです。そのことを津川さんに言うたら、そらそうやろ、太夫元の娘やと思って会うときと、いち座員の若手の嫁さんになったのとは違うよって。君は、僕があなたと結婚したら、僕がえらくなると思ったの?って言われたときに、あー…って言ったら、そやろ? 君のおとうさんはえらいけど、君はべつにえらくないじゃん。そやのに、君と一緒になったら僕がえらくなると思ったんか? それは間違ってるよ。君はもう、太夫元先生の娘さんじゃなくて、座員さんのお嫁さんになったんやでって言われて、ああそうなんや。ほんとにそうやなって。そんなことで、つどつど、怒られましたね。荷物運んでるときでも、うちのおとうさんだったら、若い子呼んで運ばせたりするのと同じように、お願いとかっていうと、いや違う、自分で運びなさいと。自分でやりなさいなんでもって。ああ、自分では修行してるつもりでも、修行になってなかったんやなって」

役者としてのみならず、座員の嫁としての修行も始まった。

「それからしばらくして、おばさんがいる桐龍座恋川劇団に津川さんと何年間かいたことがあるんですけど、いままでの暮らしとはちょっと違う。おとうさんがいないんで。おとうさんの劇団っていうのと、よその人の劇団っていうのは、親戚でも少し違う。わたしが当たり前だと思ってることでも、当たり前じゃないってことがあるんですよ。そのあと、ほかの劇団に行った時期もあるんですけど、劇団によってしきたりが違うから。それぞれいいとこと、それぞれとつらいとことってあるんですよね。そういうなかで、津川さんが、初めて、ああ、太夫元のお嬢さんに苦労をかけた、苦労させてしまったと思ったみたいなんですよ。自分が座長になりたいとかいう気持ちで一緒になったんじゃないから、わたしを連れていろんなところで修行してって思ったことが、太夫元の娘に苦労させてしまったと。太夫元や自分の師匠はこんなつもりじゃなかったやろな。苦労させたくなかったはずやのに、自分のせいで苦労させてしまった、さびしい思いをさせてしまった、というのが津川さんのなかにはあったみたいです。そうするうちに子どもができたじゃないですか、ふたりね。で、鵣汀が座長になりたい、って言い出すわけです」

それぞれの、苦労を重ねて少しずつ夫婦になり、家族になっていった若いふたりの、次回は劇団旗揚げの物語。

(2023年11月28日、12月9日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

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