辰己龍子は話を聞くなかで、役者としての自分を、評価したり分析したり決してしない。常にいまいる場所で、自分のできることを精一杯やってきた、ただそれだけですよと言わんばかりに、どこまでいっても控えめだ。役者の家に生まれたわけではない。役者に憧れたわけでもない。しかしだからこそ、辰己龍子の芸には、観るものを引きつける強さがある。
「5歳のときに、ある劇団に入団しまして。両親は役者ではないです。普通の家庭に生まれたんですけど、父と母が離婚しちゃって。わたしは父方にいたんですけど、食べるのが大変な時代で。父親も子供がいると働けないから、おばあさんに預けられたんですけど、おばあさんも孫の面倒までみるのがしんどかったらしくて、あちこち預けられたんですよ。とどのつまり、預けられた家の娘さんのだんなさんが大衆演劇の座長さんで。子供がいなかったので劇団においでって、そこにもらわれた形で入ったんです」
「劇団に入る前、小さい時は、おばあちゃんと映画観に行ったりして幕間で音楽鳴ってるじゃないですか。それにあわせて勝手に踊ってたみたいで、踊りは好きやったみたいです。好きやったから、舞台に立つのは嫌ではなかったですね。ひとりで芝居したり、ひとりで踊ったりしてましたから。父親と母親には会えなかったけれども、わからん間に自然に劇団の生活におさまっていったっていう感じでしたね。そこが自分の暮らしになっていったから。いまもそうですけど、わたしたちが子どものときも投光からやらされました。投光やってたら、必ず芝居を観るじゃないですか。わたしもやりましたよ。学校も行ってましたけどね。舞台に出ないときは、投光行ってこーいって。子どもといえど、遊んでたら怒られる。大阪の劇団でした。小さいときのことはあんまり覚えてないですけど、公演してたのは尼崎とか関西中心です。わたしが小学校4年生くらいのときから、ヘルスセンターができたんです。劇場にお客さんが入らなくなって、ヘルスセンターへ公演しに行くようになったんですけど、そのころは座員がほとんどいなくなってて、お芝居しないで舞踊ショーとかそういうのが多かった。踊り専門の劇団みたいになっちゃって。ヘルスセンターは、いろいろ行ってました」
テレビの普及や高度経済成長、大衆演劇界にとっても激動の時代と辰己龍子の娘時代は重なっている。劇場への客足が減る一方で、全国にできたヘルスセンターやレジャーセンターに、大衆演劇が活動の場を広げていった昭和40年代。夫となる勝小龍(のちの二代目小泉のぼる)と出会う。
「16のときですかね。別府に鶴見園っていうレジャーセンターがあったんです。いまはなくなっちゃったんですけど、杉乃井ホテルの下あたりに。そこの杮落としに、わたしとこの先生が行ったんです。人数が少なかったんで、劇団さんを買ってっていうとおかしいけど、よその劇団と合同で。5月に初代小泉のぼるの劇団と合同になって、そこにいた主人と知り合ったんです。そのときにちょっとおつきあいして。そのあと、自分とこの劇団がなくなってしまったから、わたしは普通に喫茶店で働いていたんです。そのころ、再会しまして。結婚しよっていう感じになって。それで、19のときに嵐劇団に嫁いできたんです。どこに惹かれたか? 若いときだから、うまく言えないですけど、ひとつ年上というか10カ月上なだけだったんですけど、頼りになる人だったし、ぐいぐい引っ張ってくれる人だったんで。いい人だなと。主人は三兄弟の一番末っ子だったんです。当時は、もちろんお父さん(嵐九一郎)もお母さん(初代辰己龍子)もおられて、お兄さん(勝龍治)もやっておられて、真ん中のお兄さん(辰巳賀津雄)も劇団員として一緒にやっておられて。そこでうちの主人は18のときから座長をやっていて、ちょうどわたしらが結婚したのは二十歳になるかならないかのころで。お父さんもお母さんも、まあいいやろってことで。女優兼嫁さんっていう形で劇団に来たんです」
嵐劇団は、嵐九一郎と妻・初代辰己龍子、その弟の初代小泉いさお、初代小泉のぼるが中心となって立ち上げた辰己功昇劇がその前身にあたる。戦前から続く、関西のいわば老舗劇団だ。大所帯のなかに座長の妻として嫁いでいくのは、覚悟もいったのではないだろうか。
「そうですね。座長っていっても、家族のなかでは主人は一番下ですから、それはいろいろ気も遣ったし大変でした。でも、まだ責任っていうか、太夫元としてやりくりすることはなかったんで、お兄さんがやってくれてはったので。わたしは言われたことをやっていればよかったんですよね」
本格的に芝居を教わったのも、嵐劇団に嫁いできてからのことだという。
「ある程度は子役のときはやってましたけど、大きくなってからはお芝居はしてませんでしたから。嵐劇団に来てから主人にいっぱい教えてもらいました。すぐ忘れちゃうんですけど(笑)。その時々で役っていただくじゃないですか。これはこうせなあかん、この役はこうせなあかん、っていう感じで。昔は大衆演劇独特の口立て稽古ですから、当時は、主人のお父さん(嵐九一郎)が芝居立てたりしてはったんで、集まって、お父さんが言うてくれるのを聞いて、みんなでお芝居をする。お母さん(初代辰己龍子)にも教えていただいて。わたしは上に立つことはなかったんで、脇役が多かったんですね。娘役と相手役。お母さんは、座長だった時期もあって女剣劇でやってらしたから、ちょっと違ったけど、でもいろいろ教えてはくれました。昔は音楽、歌もあったんですよ。楽団も組んで演奏してたんで。わたしは楽器もできないけど、主人からここをこう抑えてって感じで教えてもらって弾いたりして。主人は何でも来い、っていう人でしたから。三味線はお母さんも上手やったんで、ちょこっとさわらしてもらって。でも三味線はコワイじゃないですか、すぐ皮がパーンと破れたりするから。だからめったに貸してくださいなんて言えないんで、ちょっと内緒で稽古したりしてました」
第3回につづく!
(2021年10月19日 三吉演芸場)
取材・文 佐野由佳