舞台「通天閣 オカンは僕の時々オトン」で、ご両親の人生をお芝居にしていますね。苦労かけたお父さん(近江二郎)が、お母さん(近江竜子)を最後に迎えに来るハッピーエンドは、飛龍座長の願望でもありますか?
うちの母親は、父親のこと、すごい好きやったと思うんですよ。それが見えてたんで。べたべた惚れてるっていうのじゃなしに。うちの母親って、男みたいな気性やったんで。
母親は50手前で自分の亭主が死んだんで、言い寄ってくる人がいっぱいいたんです。オレも子どものころに、再婚していいよって言うてたの。つきあってはなかったと思うんですけど。絶対誰とも。全部、シャットダウンしてたんで。うちの父親のことがすごい好きやったのか、俺のことをすごい守ろうとしてたか、どっちかやったと思います。
「田村正和が言ってきたら、結婚してもいい」って口癖みたいに言ってましたけど。うちの父親も好きやったと思うんです。女はいっぱいおったらしいんですけど、絶対に外に子どもつくらないというのがポリシーやったらしいです。嫁と女は違うっていうのは、きっちりしてたらしいです。
うちの父親も生きとったら93歳かな。61歳で亡くなってますから。父親が死んでから、その当時の、女の人やった人も舞台を見に来たりするわけですよ。でも何かしらんけど、そういう人はうちの母親と仲がいい。「久しぶり」とか言ってる。帰ったあとに、「あの人、お父ちゃんの昔の女やで」「ええっ?」っていうこと、よくありましたね。
ご両親のなれそめは?
うちの父親は、もともと、のちの大川竜之介劇団の座長だったんですね。そのころに、籍には入ってなかったんですけど、前妻がいたんです。内縁の妻が。それが初代大川竜之介先生のお姉さんやったんです。お姉さんと一緒になったんですけど、病気で亡くなりはった。その当時、親父のまわりに何人か女の人がいて、そのなかにうちの母親もおって、16歳ですわ。 16の母親の手を取って、米軍の払い下げのサイドカーに乗せて、大阪まで走ったらしいんです。
母親は、初代鹿島順一の娘で、大分の別府で、三座合同公演をしたときに、父親と出会ってるんです。
芝居のなかでは、人気が出過ぎて客の目が怖くなって出奔した話にしてますけど、あれは脚色してます。
ほんとは、前妻が亡くならはって、自分の義理の弟、いま一応、大川竜之介劇団の創設者になってる初代大川竜之介に、「お前、座長やれ。オレ、大阪行くからって」って飛び出した。顔がそっくりやったんですって、なぜか。うちの父親と義理の弟が。翌日から座長が変わったけど、お客さん全然わからなかったって(笑)。テレビもない時代だし、ポスターも写真とかじゃなくて、絵の時代ですから。劇団座員も50人とかいる時代。終戦から、8、9年経ったころの話です。
(2020年8月29日 堺市自宅特設スタジオにて)
取材・文 佐野由佳