第2回 津川竜と剣戟はる駒座

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勝龍治は、剣戟はる駒座の総裁という肩書きを持つ。80歳を目前にした現在も、ここぞ!という演目はもちろん、小さな役大きな役、ほぼ毎日、舞台に立ち観客を魅了する。娘の晃大洋(こうだいはるか)と娘婿の津川竜が1997(平成9)年に旗揚げした剣戟はる駒座は、いま、勝龍治にとっては孫にあたる、津川鵣汀、津川祀武憙の兄弟が座長をつとめる。2020年に早逝した津川竜は、勝の末弟二代目小泉のぼるの弟子だったから、勝自身が直接何かを教えることはなかったが、一緒に舞台に立っていると、弟とよく似ていると思い嬉しかったという。

剣戟はる駒座の旗揚げのときに、嵐劇団から移られたということですか?

「娘婿が旗揚げするのに人数も足らんし、なんとかならんか言うから、わが子のことやしね。嵐劇団には、しばらく向こうへ行くけど、ようなったらすぐ戻るから言うて、こっちへ移ったんですね。向こうが本業やったから。嵐劇団も、まだたつみ(小泉たつみ 勝の甥にあたる)が座長してなかったからね。弟(二代目小泉のぼる)が座長やったから。行ったり来たりして。こっちが人数も少ないから、休み以外は行けない。そのうちに、たつみが大きいなりよったし、弟が『兄貴、せがれを座長にさせよう思うねんけど』って言うから、まあ悪いことやないし。結果的には、僕は娘のほうへ来て。しばらく留守にするからっていうのが、ずーっと留守になってしまったの(笑)」

津川竜(左)と舞台で。社会悲喜劇「小豆島」より。
写真提供=剣戟はる駒座

「剣戟はる駒座は旗揚げを組織するまでに年数がかかりました。津川本人は、明日にもやりたかったんですけどね。人数が集まりにくかったのと、恋川(初代恋川純)のとこが、ちょっと人手が困ってるというんで、そっちにしばらく行って。まだ鵣汀が小さいころです。そこで弟の祀武憙が生まれて。そのあとゲストに出てほしいと頼まれて市川おもちゃくんのところを手伝って。そのあとようやく、剣戟はる駒座っていうことでやれるようになったんですね。そのころの関東に、もともとうちにおった役者さんで仲のええ人らが劇団でまわってはった。そこが解散したんで、『弟子子(でしこ)もおるし、しばらく手伝えるよ』って。寄せ集めでのっかったのが、茨城県のかぶく館ってセンターやった。弟のようにかわいがってた役者で亡くなった大門力也っていう男ね、彼ももともと自分が座長やっとって辞めて、大日方くんとこでずーっと座員やったんだやけどフリーになってたんで『兄貴、ゲスト1カ月くらいやったら行けるけど』って来よったし。あと(初代)美影愛くん、九州のね、友達やったし。『ゲスト行くよ』って。それで蓋を開けたというのが、はる駒座の出発です」

津川竜さんは、もとはどちらの劇団にいらしたんですか?

「二代目小泉のぼるの、いわば養子兼弟子子という形ですね。もともとは、親御さんと一緒に嵐劇団に来たんやけど、本人だけ残りたいというので弟子入りして。まだ15か16やったからね。弟が養子みたいにして、わが子兼弟子という形で置いた。そのうち、うちの娘と歳も近いし、仲ようなって、随分仲ようなってたね〜(笑)。そういうことです(笑)。津川のお父さんはもう亡くなならはったんです。お母さんは、いまうちの劇団にいますよ。お舞台は出てないですけど、照明やったりしながら。親ひとり子ひとりやのに、かわいそうに息子に先立たれて……。劇団つくってしばらくして、他で勤めてたんやけど辞めてきはって、わが子がやるんなら、あたしも一緒に居りたいっていう親心ですわね。もともと女優さんやなかったんでね。着物たたんだり、それくらいならできるよ言うて。木戸に座ってもらったりしてます」

一緒に舞台に立つなかで、津川さんに教えることもあったのでしょうか?

「ないです。なぜか言うたら、弟のそばにずっとおった子やから。習ってるとしたら、弟に習ってるでしょう? 僕とは若い時分から一緒にいました。子ども上がりの時分くらいから一緒に舞台出ることが多かったから、それこそ見て覚えてくれたね。弟の芝居も観てたんやろね〜。だから、津川にしてみたら自分の師匠が亡くなって、師匠がやってた役をぽんとやった。僕は兄弟やから似とるな〜、似とる、やり方忘れとらへんわ、ってこっちが思い出すくらいね。やっぱり勉強しとったんやね。だから、やりやすかったです。勉強熱心やしね。しっかりした子やったんでね。なかなか……惜しい、ね」

津川竜(左)、孫の津川祀武憙と。
写真提供=剣戟はる駒座

剣戟はる駒座が上演する数ある演目のなかで、勝龍治、津川鵣汀、津川祀武憙が三つ巴でしのぎを削る「餓狼(がろう)の掟」という芝居がある。上州を舞台に、3人の盗賊が織りなす人生の交わりを通して、人間の欲と正義と業を描くハードボイルドな時代劇だ。

劇場で会った永年の劇団ファンの女性が、2020年に津川竜が亡くなってほどなくして観たこの芝居の話をしてくれた。突然の訃報に呆然としていた、けれど、もっとつらかったのは家族の、劇団の人たちだったはずだ。それでも幕は開き、いつも津川竜が演じていた盗賊の親分に扮していたのは勝龍治ーー。「勝総裁と鵣汀座長、祀武憙座長が、津川総座長と一緒に舞台に立ってる、そう思えたんです。きっとこれからもそうだし、そうやって剣戟はる駒座は続いていくんだって思えた。忘れられない演目です。あの日、お三方もそういうお気持ちだったんじゃないでしょうか」と。

6月の関東公演でも上演したこの演目について、上演数日前からの口上挨拶で何度となく、鵣汀座長が「勝龍治演じる盗賊の親分の最期を観てください。最後、僕は花道を去っていきますけど、僕はどうでもいい、この日の勝龍治を観てください」と誇らしげに語った。以前、小泉ダイヤ座長がこの芝居をどうしても観たいからと、そのためだけに観客としてやってきて、終わったあと涙を溜めながら楽屋に来てくれたというエピソードも披露した。

どんな悪役をやっても、どこかユーモラスな色気のある勝龍治が、このときばかりは陰惨な老盗賊になりきった。

上州でならした盗賊の親分・剣文吉(つるぎのぶんきち)、その子分・安中宗三(あんなかのそうざ)と、妙儀白造(みょうぎのしろぞう)。一度はお縄になった三悪盗は、唐丸籠で江戸送りになる前日に牢番を殺害後、逃走。逃げる道すがら、足抜けしたいと言いだした宗三を、文吉が許したにもかかわらず、白造は斬り殺す。文吉と白造も、それぞれ袂を分かつ。しかし、死んだはずの宗三が実は生きていた。しかも、偶然出会った白造の妹と所帯を持って。小さな幸せをつかんだ宗三、そこに、その幸せを聞きつけた文吉が容赦ない金の無心にやってくる。妹の幸せのため、文吉にかけあう白造。悪人にも悪人の掟がある。それぞれのなかにある悪と正義が、あざなえる縄のように人生をからめとる。欲にまみれながら死んでいく老盗文吉の最期は、みにくく悲惨だ。しかし勝はそのみにくさのなかに、そういうふうにしか生きられなかった男の人生の悲しみを、幕が閉まるその瞬間までこれでもかとにじませる。

剣文吉(勝龍治)
妙儀白造(津川鵣汀)
安中宗三(津川祀武憙)
足抜けしたいと請う宗三を、文吉は許す。
白造に斬られた宗三は、九死に一生を得て、助けてくれた村の娘と幸せに暮らす。宗三が生きて幸せに暮らしていることを聞きつけて、文吉がやってきて金の無心をする。
宗三の妻が、自分の妹と知り、文吉にかけあおうとする白造。
白造の手にかかり、死んでいく文吉の断末魔を勝が濃厚に演じる。

剣戟はる駒座の舞台には、どんな芝居でも舞踊でも、いい意味での行儀のよさがある。

むやみに肌を露出したりしないところも、芸で勝負している感じがすると伝えると、

「見せないかんところを見せたらええのに、見せんでもええとこまで見せる役者がおるからね。役者は『お』がつかないといかんから。お役者にならんと!やっぱり品にもいろいろあるからね。上品な芸やないといかんよというのが津川の考え方、教え方なんでね。きっちりしてた。きれいなものを観に来てもらって、喜んでもらえるんだからってね。役として着物をはだけるのはかまへんけど、だらしなく見えたらいかん。そういうとこ大事やね。僕もね、普段はだらしないくせに、舞台でだらしないのは嫌いなんですよ。どっかちゃんとしときたい人。それはもう自分のクセで。そういえば大日方くん、あの人が品のいいお役者さんでしょ? 僕らはライバルというよりも、昔からの友達なんやけど、オレとは全然違う種類の役者さんやな〜と思ってた。きれいやしねえ、品があるしオレみたいにガラ悪くないでしょ?(笑)」

小泉劇団、嵐劇団の時代からやっていて、剣戟はる駒座でいまもやっている演目はたくさんありますか?

「あるというたら、ありすぎるくらい。自分らでこしらえたお芝居もあるし、昔からのもあるし。ただ昔のお芝居ちゅうのは人がいるんですわ。劇団に40人50人おったころの芝居をね、いまやったら10人足らずでやらないかんでしょ? そうすると無理もあるんで。出せない外題もある。ゲストに何人も来たら、こうしようかーって、できることもあるけどね」

小誌のインタビューで小泉たつみ座長や辰己小龍さんが、昔からやっている好きな演目のひとつに『春雨新五郎』をあげていました。

「はいはい。僕の親がこしらえた、とは聞いてます。おじさんの時代から僕の時代に、それから亡くなった弟に譲って、弟が主役してたね。それからいまのたつみになって。もちろんうちは僕がおるから、津川に新五郎を立てた。だから恋川のとこもやるん違う? 新川しかり。うちの流れを汲んでる役者ははみんな知っとるんでね。書き残しとるやつもいるし。いまどきはこんなもん(スマホ)に録ってるけど、機械壊れたら大変でしょ? だからここ(頭の中)に残しといたほうが確かやからね〜(笑)。それでも、自分の出番じゃないとこは覚えてない人が多いんで、やると決まったらあらためて聞きに来るけどね。そのときは、人集めとか台詞稽古とか力になれるところはなります。みんなうちから出た子やし、親戚の子やし、いまだに変わらずみなやってくれてる。僕もたまに甥っ子とこ行きますけどね。どうせ自分がやるのはワル役やけど(笑)」

娘であり劇団代表をつとめる晃大洋。

晃大洋さんも、芝居も舞踊もほんとにお上手ですね。

どんな役で出てきても、目が釘付けです。

「あの子は子どもの時分から、芝居、演芸が好きやからね。歌好き、踊りも好き。習いにもちゃんと行ってるし。芝居は嵐にいるうちからやってるから。自分の亭主が劇団を率いて行くことになって、自分がやらなあかんってだんだんしっかりしてきたね。いまやうちの劇団全体の母親みたいなもんです。せなあかんことを率先してやる子やったから……。それに亭主が生きている時分から、おつきあいで大衆だけじゃない商業のほうの舞台に出にも行ったり。僕はタッチしないからあんまり覚えてないねんけど、いろんなとこへお呼ばれしてテレビにも声かかったり。祀武憙も沢瀉屋さんらと子役でご一緒して、いろんな知り合いができてかわいがってもらってますよ。そういう時は必ず帰ってくると、こうやったで、ああやったって報告しよる。ほとんど、悪い話は聞かなんだ。吉幾三さんはお酒が好きで涙もろくてええ人やあとか。僕は聞くほうやから、そうかよかったなあって」

娘さんを育てるときに心がけていたことはありますか?

「もう……ほったらかしです。母親任せやったから。自分が忙しかったから。舞台のことも教えません。うちの親と一緒で。親が教えてくれなんだのに、なんでオレが教えなあかんの(笑)。それぞれ感性っちゅうのがねあるんで。自分でその役を与えられて、自分で工夫せなんだらダメ。まあ僕も、親からほめてもうたことがないんで、それが、よーし!という気持ちになったんやろ思うとるんで!」

第3回につづく!

(2022年6月12日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

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