第4回 僕は座長の子じゃないから

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「昔のことといっても、なんせ歳も歳ですから忘れてますけどね」と笑いながらしかし、大日方満の語る人生は、強い光と影にふちどられている。父とふたりの旅から旅の暮らしのなかで、少しずつ役者としての人生を切り拓いていった少年時代。舞台の上で、役者はイヤやと泣いたこともあるという。大日方満は、いかにして大日方満になったのか。

一代でつくった劇団とおっしゃっていました。役者の家に生まれたわけではないんですか?

「役者の子ですけどね、父親は座長じゃなかったんです。うちの父親は四国の高知の出、後免(ごめん)いうとこ。私が生まれたのは、昭和15年7月26日、徳島の小松島の徳島劇場と言ったのか、歌舞伎劇場と言ったのか。その時分、定かじゃないんですけども、そこの芝居小屋で僕は生まれたんです。旅から旅で。生まれただけで、そのあとは行ったことないんですけども」

初舞台の記憶はいつごろですか?

「10歳のときですかね。小さい時から親とまわってましたけど、舞台嫌いだったんですよね。僕は座長の子じゃないから、普通の座員さんの子でしたから。すごく嫌いで。照明の下で3歳やらのときから舞台は観とったんです。10歳なる前に母親と別れて、父とふたり、旅をまわってたときにねえ、今度子役に出てみぃっていうんで出されたんですけどね、それが、ま、だいたい10歳です。もうただ出ろと言われたから、言われたまま出たままで、何がなんだかわからずじまいでした。それから1年くらいたって、チャンバラやったりなんかするのをずーっと見とって、やってみたいなと思ってましたです。そのときに父親が、お前もやっていみぃって言って化粧してくれて。この舞台に出たのが、11くらいのときでした」

それはどちらの劇場でしたか?

「それがねえ、それも定かではないんですよ。そのあとちょこちょこ出だしたのは、大阪の環状線の天満劇場ってあったんですよ、大きな、昔から。そこに出た覚えがあるんですけどね。そのときにね、中幕に舞踊ショーがあったんです。そこでいきなり、国定忠治の真似をせぇと。赤城の山のね、あの『赤城の山も今宵かぎり……小松五郎義兼が』いう。それに出ぇいうて、親に教えられて、中で台詞をちょっと言ってというのは覚えてます」

その当時は、どちらの劇団にいたのですか?

「川浪正二郎劇団という、もちろんいまはないですけど。川浪正二郎先生がすごい僕をかわいがってくれて。それで舞台にいっぺん出てから、次々と出ろと言われて、お芝居にも出ろと言われて。お芝居も教えてもらって。だから11歳くらいからだんだんと舞台に出だしたということですね。川浪正二郎っていう先生は、体のでっかいね、すごく優しいお人だったんです。それで2年くらいして、川という字を小という字に変えて、小浪正二郎って名前をもらったんですよ。そこの文芸部に、藤村五郎という人がおって、僕が13、14くらいのときにその人が、お前もこれからだんだんと大きなるのに、人の名前をもろて、川を小という字に変える、そんなんダメやから、俺がつけてやるいうて、つけてくれたのが、この大日方という名字。当時はひとつの劇団に、文芸部、かづら屋さん、それからお囃子さんーーつまり三味線、太鼓、そういう人たちがみんないたんです。文芸部の人が、お芝居を書いてくださいます。はい、台本にして。それを座長が目を通して、これいいなあ、ここはああしてこうしてと文芸部と打ち合わせをして、配役は、あの役者にこれしようか、この役者にこれしようかと決めていきます。それから僕も子役にちょこちょこと。子役いうたって、中子役みたいですけど、それからだんだん舞台に出だしました」

文芸部はいつごろまであったんですか?

「よくわからないですけど、僕が二十歳になるころ、昭和35年くらいには、文芸部はほとんどの劇団になかったですね。文芸部いうたら、当時歳いった人が多かったですね」

もともと役者をしていた人で達者な人が書かれていたという感じですか?

「そうですねえ。そういう人が多いです。器用で。うちにも、僕が劇団もったときにおりましたけども、劇団で亡くなりました。だんだんいなくなりましたね」

そうやって文芸部がつくった芝居を、座員の人に教えるときはどうするんですか?

「文芸部さんなり、座長さんが一応本読みみたいにして読むわけです。それを、その時分はテープなんてないですから、みんな役者が自分で書くんです。長い台詞も短い台詞も。『何々大五郎一家、子分大勢、下手から出てくる』ほいたら、子分言われた人間は、『子分、親分について下手から出る。親分と一緒に入る』っていう具合に、みんな稽古帳っていうの持っていて、自分で書くんです。ひとつの部屋のまんなかで、あるいは舞台で、座長なり文芸部さんがおって、お囃子さん係も照明係もみんな座って。座長が言うたり、文芸部さんが、いや、そこは座長ちょっとこうしてもらって、という具合にして、座長と文芸部が決めて、座員がみんな聞いて。そのあくる日ぃかその晩に立ち稽古。難しい芝居はその場では稽古できないから、一晩おいて。舞台は毎日です、もう毎日です。ネタが何十本もあって、繰り返し繰り返しやってる芝居の合間に、新しい芝居をする。明日は稽古だぞー、今度この芝居をやるからってお知らせがあって、そのように稽古場でやるわけです」

1回の舞台の芝居の本数も昔は多かったんですよね?

「昔は3本やってましたから。1番目に前狂言があって、2番目が中狂言、3番目がいまいうショーがちょこっとだけあって、そのあとが切狂言。

メインの芝居は切狂言でね、50分くらいですか。前狂言が40分くらい。中狂言が30分くらい。今みたいに長くない。前狂言というのは、失礼ですけど、お客さんが入ってくるときでザワザワしてるでしょ。だから、若い子にさすという感じですよね。どこの劇団でも前狂言の案を出す幹部さんというのが1人なり2人おって、前狂言あんたに責任もたすからって、そしたら責任もった人間が自分で前狂言を考えて。40分くらいであげてや~、30分くらいでな~とか、切狂言でこの人とこの人とこの人は大事な役で使うから、ほかの人使ってやってな、とか。自分たちで考えて。ちょっと簡単なストーリーがあってひとつのまとまった芝居をやってもらう。中狂言はもうお笑いですね」

人数はどれくらいいらしたんですか?

「その時分、わたしが役者に出だしたときには、どこの劇団でも役者が多かったです。いまみたいに7人、8人きりってないです。最低少なくても15人。若手の幹部さんというのが必ず2人くらい、ほいで若手の下、かけ出しいうのがおるわけです。女優さんも立女形(たておやま)いうて、姐さんとかやる人、その次には娘役いうて若いお嬢さんの役をやる人。裏も5人なり6人なりおりましたから。僕が19のときに、友達と劇団組んだんですけど、その時でもやっぱり15、16人おりましたね。そのあと、僕一人になっても、やっぱり20人近くはおりましたです」

さらに舞踊ショーもあったんですね。

「踊りが中幕で4~5本ある。川浪正二郎っていう私の師匠みたいな人は、田端義男さんが好きで、ギターが上手だった。マドロス帽かぶって。ほかの役者さんに3本か4本くらい踊らして、これから座長に歌っていただきますって、その当時、どこの劇団でも歌なんか歌うところないんですよ。でも、その人だけは、ギターを抱えて、オオッスいうて『ふるさとの灯台』とか『大利根月夜』とか、やっぱ3、4曲歌う。その当時は、川浪正二郎という人は、大衆(演劇)のなかでも先を行っとったからねぇ。だからすごくウケましたけどね」

40代後半の大日方満。昭和60年代の浅草木馬館で。撮影:臼田雅宏

そこにいくつまでいらしたんですか?

「15までおったんです。まあ、だんだん役をつけてもらって、下かけ出しみたいなのをやって、二枚目役をやっとった、14、15歳でね。それをある劇団の人が観にこられて、僕とお父さんを引き抜きにきたんです。それが16のときで、座長にするからと。うちの父親は座員やったから、うれしい。僕も座長になりたい。やっぱりやるんならいうんでね。川浪の親父に話をしたら、えぇことやないか、行ってこいや、いうて出してくれた。その時に、藤村さんにもらった名前の大日方に、本名が章彦というんで、大日方章彦で雇われ座長になった。ところが16で座長になったでしょ、周りは30や40の古い人ばっかりで、女の人いうたって5人も6人もおるし、ええ役する人から悪役(わるやく)する人から、若い人はたくさん。そんなところへポンと、座長にはしてくれたけど、芝居があんまりないから、人から立ててもらってやる。あんまりできないもんやから、舞台で大根ばっかりかまされて。恥ばっかりかかされて、という意味ね」

どういうことですか?

「こんなこと言えないのかとかね、舞台の上で。小さい声で、『おい、早よ言わんかい、座長、あんたや』って、余計言えないんですよ。『お前どうしたんだよ、これだけ俺が言ってんのに、喧嘩もできないのかよ。やるなら来いよ』って。台詞はわかってるんですけども、言うに言えない。しまいに、扇子を叩くのに、本当にこの頭をパチーンパチーンって叩くんですよ。いかな私も我慢できなくて、差しとったドスを前にこう捨てて、もうイヤー、お父さん、俺もう役者イヤー、って舞台で泣いたことがある」

切ないですね。

「ま、それで太夫元さんっていう親方がね、なかに入って、うちの座長はまだ16やし若いんやから、みんな教えてやってくれいうて、その場はおさまったけれども、自分がそれだけやられたからイヤで早くやめたい。勉強したい、いう気があって。そのときに大阪にいろいろ座長がいたけども、明石英雄さんという座長さんがいたんですよ。品のあるね、歌舞伎役者みたいな人で。その人の芝居に、僕、憧れてましたから、父親にそこへ行かしてくれと。そしたら、お前ひとりやと心配やから俺も行く、と。それで父親と二人で、そこへ入ったのが17のとき。17から18の後半くらいまで約2年近く、いい勉強させてもらったんです。舞台袖からずーっと芝居観て、自分が座長になったらこの芝居はやりたいなと思う芝居を、僕も学校もろくに行ってないんですけれども、配役と筋書みたいなのを帳面に書いて」

明石英雄さんの、どういうところに憧れたんですか?

「僕が観てきたほかの役者さんっていうのは、派手っていうか。昔でいうたら、歌舞伎調みたいな、止めずとやらしておくんなさいとか、ヤマをあげたり野崎をふんだり、えやしゃん、えやしゃんっていう楽(がく)があるんですよ。それが大衆演劇ではよく受ける楽なんですけども、そういうことをしない座長さんだったんです。ちょっと、まあ、いうたら、大衆演劇と新国劇くらい差があるんですよ。スッとした芝居でね。大衆演劇というと、バッテンバッテンとやる芝居が多かったんです。でもその人はそうじゃないんですよ、はい。で、冗談もあんまり言わない。もう真剣に取り組む人なんです。それに憧れて、そこで教えてもらいました」

次回につづく!

(2021年10月17日 演劇館 水車小屋)

取材・文 佐野由佳

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