剣劇はる駒座は鵣汀の父、津川竜が1997年に立ち上げた。わずか4歳だった鵣汀が「座長になりたい」と言ったことがきっかけだった。4歳で座長って?とたずねると、照れ笑いをしながら、
「4歳でスターに会うんです。恋川純弥です。新開地劇場のゴンドラでおりてきた恋川純弥を観たときに、この人みたいになりたいと思ったんです。なるにはどうしたらいいのか。そのとき、純弥さんは座長やったんで、座長になればこの人みたいになれるんやって、安易なんですよ。恋川純弥になる=座長にならないと、という。若いときの恋川純弥は誰よりも知ってます。観に行きましたし、写真も持ってますし、同じ衣裳とかつらも持ってました。純弥兄ちゃんも作ってくれたんで。こよなく愛してましたから」
「恋川純弥と押し入れで抱き合って寝たのは僕だけやと思います。うちの親父がゲストで行ったとき、帰りたくないから純弥兄ちゃんのカツラ箱の中に入って、ここに隠れてればここに残れる、純弥兄ちゃんとおれると思ったんで。だから、かわいがられすぎて純(二代目恋川純)に嫌われてましたからね(笑)。いまだに言いますからね、『ちっちゃい頃、お前のこと嫌いやったって』。だろーなって(笑)。ほんっとーにかわいがってもらってました。でも、どっかでわかるんですよ。恋川純弥にはなれないっていうことに気づくんです、自分で」
違う自分を探そうと思った鵣汀は次のスターに巡り会う。十八代目中村勘三郎、尊敬しているので、「先生」と呼んでいる。
「最初、先生見たんって9つくらいやったんかな。ニュースかなんかでNYで団七をやるっていうのを見て、すごいって思って。11歳のとき、DVDを買ってもらって、なんて上手い人なんだろうって。その頃は、親父から怒られすぎてて、それがいやで芝居なんかせんでもショーで食っていけたらえぇわって思ってたんです。芝居、嫌いやったんですけど、歌舞伎ってやっぱすげーな、歌舞伎役者になりたいって思ったんです」
勘三郎のおかげで芝居が好きになった鵣汀はYouTubeやDVDで勘三郎の舞台を観まくるようになった。
「『四谷怪談』も観たし、橋之助さんと水でバシャバシャやってるのも観たし、コクーンの初演の『三人吉三』も観て。この人、なんでこんなに上手いんやって。そのうち、先生が平成中村座を始めはって。たまたま僕ら自主公演で浅草におるときに、平成中村座をやってたんですよ。劇団で10人で観に行ったんですけど、夜の部だけ当日券があって椅子席が1席だけあいてて、頼むからここに座らせてくれって。僕、生まれて初めて買った歌舞伎のチケットが先生で」
鵣汀、15歳の冬のことだ。平成中村座の1階席は前のほうが桟敷で通路を挟んで椅子席になる。その椅子席の最前列に鵣汀は座った。当日でそんなにいい席があいていたのは、まさに運命だったのだろう。
「『法界坊』が始まって。黄金世代ですよ、チーム中村屋の。小山三(こさんざ)さんもみんな生きてて。幕あいたとき、どんな遊園地行くより、ものすごい楽しかったですわ。『浅草、浅草寺の釣り鐘の建立、お志はございませんか』って声がして、先生観たら勝手に涙が出てきて、もうぐわーっなって、DVDすり切れるほど観てたんで台詞覚えきってるんで、一緒にずっとしゃべってて。いやでも、やっぱりすげーなっていうのと、感動と嬉しいのと、もう先生しか観えなくて。門は叩いてないけど、僕、この人の弟子や思いましたもん。この人の弟子やなって。誰に認められるとか、ではない。この人の芸を残すために生まれてきたんやって」
法界坊が手紙を客席に見せるシーンで、普通なら舞台上から前のほうの客に見せるだけなのに、サービス精神旺盛な勘三郎は客席におりて後ろの客にも手紙を見せてまわる。
「いちばんチケット代が高いお大尽席に行くのに脚立のって梯子も持ってきて、やっぱ先生おもろいなあ、毎日やり方を変えてはるんやろうなあって観てたら、目の前を通りすぎるんですよ、先生が。で、いったん舞台に上がったはずの先生が、もう一度おりてきたんですよ。また先生遊ぶんやなと思ったら、目の前に止まるんですよ。弟子や思ってるから、おそれ多くて頭下げちゃうんですよ。わっけわかんないですよ。え、誰の足?ってなって、パッと顔上げたら先生がおるんですよ。先生が『どっから来たん?』って言うんですよ。『大阪です』『名前は?』って聞かれて、僕、鵣汀って1回で聞き取ってもらえたことないんですよ。絶対聞き間違えられるのが普通なんで、ビビッてたし、むちゃ小声で『鵣汀です』って言ったんです。ったら、聞き逃がせへんくて、先生、『鵣汀ッ、鵣汀くんが来てる~!』って連呼し始めて、僕、数えてたんですけど10回も叫んで。『オイ、橋之助、鵣汀くんが来てるぞ、嬉しいよね、こういう若い子が観にきてくれないとダメなんだよ』って。『誰を観にきたの?』『先生です』『オレを観にきたんだってよ、拍手だ、拍手!』って拍手させるんです、お客さんに」
隣の席のおじさんが、昨日もここで観てたけど、勘三郎はおりてこなかったよ、とびっくりしながら教えてくれた。
「芝居が進んで、かっぽれ踊って花道を入るときも、わざわざ止まって『橋之助みたいな役者になっちゃダメだよ、鵣汀くん!』って僕のほうに言うて入ってったんです。僕が役者ってことを認識しはったんやなって」
ジーパンにTシャツ、特別派手な格好をしていたわけでもなんでもないのに、不思議と言うしかない。
「勘太郎さんや弥十郎さんが舞台を横切ると、みなさん身長が大きいから舞台が一瞬見えなくなるんです。そしたら先生が『早くどけよ、鵣汀くんが見えないじゃないか』って。笑うじゃないですか、お客さんらも」
そうだった、そうだった、勘三郎という役者はいつも全力な役者だった。お客さんのウケを狙ったのではなく、オレを観にきた鵣汀くんの視界をさまたげるな、鵣汀くんがオレを観る邪魔をするな、と本気で汗だくで怒っていたにちがいない。
「終わって、どうしても確認したかったんですよ。役者って認識されているのか、たまたまやったんか。出待ちしたんです。みんなは『車でとっくに帰ってるよ』って言うんです。まあものの見事に、弥十郎さんも橋之助さんも勘太郎さんも七之助さんもみんな車で出ていくんですよ。『絶対、もう帰ってるって』『いや、先生はもうすぐ出てくる』って言ってたら、ほんまに歩いて出てきたんです、楽屋口からひとりで。で、出待ちしてたおばちゃんたちと写真撮って、気づかへんやろうし、何も言えずに突っ立ってたんですけど、僕の前を通り過ぎた先生がビャーッて戻ってきて『おお、ありがとう、ありがとぉーッ!』って握手されて。いまだに覚えてます、肩ふぁーされた先生の手。みんな、結構離れたところにおって。やのに、先生、『みんなで来てくれたんだね、ありがとうね』って言って、パッて強く握られて、『いろいろあると思うけど、頑張るんだよ』って言われて、颯爽と浅草の夜の街に消えていったんです。忘れもせんです、タクシー乗るまで僕、見送ったんで。だから、もう、絶対に絶対な師匠やなって」
それから4年後、名古屋の平成中村座に行くことができた。
「幡随院長兵衛で、幡随院が橋之助さんで、先生は水野で。先生が劇中劇を2階の桟敷から観るというシーンで、絶対に目線はずさへん先生が、目線はずしてこっちを見たんですよ。なんにも言わなかったですけど、気づかれたって思って。そのあと息子さんらの踊りがあったんで、出待ちはしなかったですけど。僕が先生を観たのは、それが最後やったんですかね」
最後でした、と言えない鵣汀がいる。生の舞台を観ることができたのは、たった2回だけだった。
「鶴松くんかな、部屋子に入ったとき、すんげー悔しかったですね。絶対、この子よりオレのほうが好きやのに、先生のことわかってるのに。何が違うんだろうと思ったんで、違う方面から先生に会いにいこうと思ったんです。先生と同じ板にのって、相対して芝居がしたい。それだけを考えて、めっちゃ必死にやりました」
一回、一回の舞台を全力でがむしゃらにやった。
「吐くほど全力でやらなあかん。そう思って毎日やってました。先生がそういう方やったんで」
しかし、その日は突然やってきた。
「12月の5日。僕、そのとき、部屋にテレビ置いてなくて知らなかったんですよ。三河温泉やったかな。夜、それこそ、先生の『神田祭』の振り付けを真似して踊って汗かいて、バーッておりてったとき、フロントのでっかいテレビで、十八代目中村勘三郎死去って出て、もう人間ね、限界超えると涙も出ないんですよ。もう、湯船もあったかくないんですよ、血の気が引いちゃってるんで。飯も食えないですし、もうなんかすべてを失った。夢も希望も全部一挙にとられた感じ。やりますよ、幕は待ってくれないから舞台もやりますけど、なんにも楽しくないんです。先生のお葬式も行けなかったですね、認めたくなくて。何が悲しゅうて先生の遺影見なあかんのやろかって思いますし、先生、先生って思ってまうし。15歳で初めて先生を観たときが人生の最高潮ですわ。座長襲名よりなにより、あれがいちばん嬉しかったです」
第3回に続く!
(2023年11月28日、12月7日 三吉演芸場にて)
取材・文 カルダモン康子