「大衆演劇の革命児」近江飛龍 文・山根演芸社社長 山根 大

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次の「仕掛け」の機会はそれから15年以上経って訪れた。これが二つ目の共同作業だ。

単発の仕事をきっかけに関わりを得たホテルを通じて、そこで様々なイベントを開催していた歌謡界とのつながりが出来、座長何人かでユニットを組んでCDを製作しないか、という話が持ち込まれたのだ。

もちろんのことスポンサーはいないから、製作費は私の手前味噌である。しかし、そこばかりは脂肪分の乏しい自腹を切ることができればどうにかなる。

座長同士のユニットとしては、その時点で、子役時代からの友人同士4名で作ったLINKが先行して存在した。

LINKは大川良太郎、葵好太郎、恋川純弥、都若丸の4人がメンバーで、シンガーソングライターとしても非凡なものを持つ若丸のオリジナル曲を自主製作していたが、それこそ、劇界に存在する「無形の重力」に捉えられて独自公演といったことは出来ずにいたと思う。余計なお世話は百も承知だが、当時のLINKに何ひとつ助力できなかった(正直、そういう相談は来なかったけれど)ことは自分にとって残念なことの一つだ。

こういう「重力」を「突破」するには、興行サイドに関わる人間が動くしかない、ということは誰しもが分かっている。

と、同時に「突破」に伴う軋轢も予想しなくてはならない。

私は、危惧を抱きつつ、それが出来るのではないか、と思った。

計画はこうだ。

 若い座長を選んで組んだユニットでオリジナル楽曲を録音してCDを製作する。メンバーそれぞれがCDを劇団で楽曲を歌い、手売りして行けばすぐに枚数ははける。毎日がキャンペーンのようなものだ。上手くすれば冷えつつあった歌謡業界でチャートを賑わせることが出来、それが出来ればユニットの特異性からしてマスコミの注目が期待でき、最終的にそれが旅芝居の観客のパイを広げることにつながる。

 その段階になれば、ユニットを核として従来にない規模の公演が可能にもなる…。

 私はメンバー候補に以上のような腹案を語りながら、一人一人口説いて行った。

 都若丸、大川良太郎、小泉たつみ、桜春之丞。

 皆20代で、お互いの繋がりは(良太郎と若丸を除き)それほど強くない。

 まとめる人間ははじめから決まっている。

 近江飛龍だ。

 その段階で飛龍は他のメンバーより一世代上だった。

 考えてみれば負担ばかり大きなポジションで、しかも私はそれを飛龍に丸投げにした。裏方仕事はこちらがする。はじめからの「暗黙の約束」に従ったやり方だった。

 こういうことをすれば、声を掛けられた者は良いかも知れない(いや、今から思うと、随分な迷惑をかけた、というのが本当だろう)が、そうでない人たちとその周辺は嫉妬もあろうし、ややこしいことが出来することは火を見るよりも明らかだ。

 特に、私の親父が困るだろう。それを黙って許してくれた親父には感謝してもし切れない。

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