「大衆演劇の革命児」近江飛龍 文・山根演芸社社長 山根 大

22017

 私は飛龍の一回り上の年回りで、親父のもとで仕事をはじめて数年というところだったが、この襲名披露については、飛龍と私で企画して行くということになった。

 私の立ち位置は「可能な限り飛龍の希望を実現する」ということだ。

 話し合ってみると、アイデアは山とあった。

 私は近江飛龍を天才だと思っているが、それは舞台上もさりながら、この時に見せられた企画力に於いてよりはっきりしている。

 やりたいことはいくつもある。

 だが、お金は当然それについて行かない。

 忘れられないアイデアは、橋を作り、それを回してその上で踊ったらどうだろう?というものだ。

 会場は阪神大震災で倒壊する前の旧・新開地劇場で、当然、舞台に盆などはない。

 どうやって橋を回すのだろう。

 「橋の下にキャスターを取り付け、動くようにしておいて、その下に誰かが入って人力で回す」

 というのだ。

 出来るかどうかは別にしてとても面白く、こんなことを考える奴がいたのか、と思った。

 舞台の後ろにクレーンを仕込む、というのもあった。

 言っておくが、亡き中村勘三郎がNYCでの公演の幕切れで背景を崩し、NYPDを突っ込ませる演出を案出した何年も前のことである。

 残念ながら、これは両方実現しなかったが、飛龍がこの時採用してその後定着した技法がある。今や、毎日のようにショウの終わりで使われている「銀吹雪」だ。それと、もうひとつ、舞台前に設置したCO2(煙がシュっと吹き上がり、一瞬で収まる)の特殊効果。

 これは、それまでの旅芝居ではなかった(少し後だが、ムービングライトも飛龍が最初に使ったはずだ)演出だった。

 芝居をコンパクトに収め、ゲストの舞踊は普通に展開しながら、劇団による途中の舞踊とラストショウは従来とは全く違った公演である。

 観客の度肝を抜いたことは確信できた(観覧してくれた東京演劇協会の篠原淑浩会長が「どうなるかと思った」という感想を残してくれたことを憶えている)。

 私は「してやったり」の想いに溺れて、不覚にも目がしらを熱くしたものだ。

 …ま、若かった(と言える年齢になってしまったが)のだろう。

 「この世界、これで変わるぞ」

 と感じることができた。

 少なくとも、その夜は。

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