第3回 この子には素質がない 

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家出したのは、役者じゃなくてミュージシャンになりたくてですか?

当時は珍しかったんですけど、髪の毛金髪にして、ロン毛にして。絶対、オレは音楽で成功してやる!って思って、一回、東京まで行ったんです。好きなドラマーに弟子入りしようと思って。結局、門前払いくらって帰ってきたんですけど。

そのころに、山根演芸社の山根大さん(現社長)に会ったんです。山根の若もちょうど、高校の先生やめて、バックパッカーで世界一周から帰ってきたころかな。

舞台に戻ろうと思ってはいなかったですけど、山根の若に、どっちが得か考えろって言われて。大衆演劇で天下取ったら、何だって好きなことできる。どっちのが可能性がある?って。それに負けたんです。単純で、あ、それやったら天下取るのは簡単やって思ったんです。うちの母親も、お前のやりたいことはわかるから、この業界で一番になって人気がでたら、30、40になったったときに音楽できるから。いまはこっちに専念しなさいって。

それで真剣にやりだして、1年半で座長になりました。19歳のときです。

1年半、何をどう頑張ったんですか?

何やろ。がむしゃらにね。甥っ子の近江新之介の一番上の兄貴が、もう引退しちゃったんですけど、当時はまだ舞台に立ってて、辰之介って名前で。その弟で蛇々丸(じゃじゃまる)っていうのがおって。新之介はまだ小学生やったんですよ。その辰之介と蛇々丸がいたんで、1年前から新しい新作をつくってました。踊りとか、新しい出し物を1カ月分できるくらい。それまでは古臭いものやってたんですけど。もうそこで、急に変えようっていって、三人でその日のためにずーっと。芝居はまだそこまでくだけたものは許されなかったんで、踊り中心に。

それやりながらね、よく遊んでました。うちの母親公認で。遊ばなあかん、もっと遊んで来いって。遊ばんかったら、芸の肥やしにならないって。いまはもう時効やけど、10代で飲みに行ってました。そんとき遊びすぎて、いま飲みに行っても楽しくない(笑)。もうええわって。ほんとに遊んでました。

その遊んだネタも舞台に持って来て。ショーパブとか女の子の店とか、おかまバーとか、夜の街飲み歩いて、あのネタ取って来いとか、そんなんもしょっちゅうやってましたんで。

それも、座長になったのを機に、ぴたっとやめました。

何で座長になってやめたんですか?

座長業を真剣にやるために。それまでは座長じゃないから、自由がきいたんですよ。2、3日休むとか。いまでこそ、そんなんもできる大衆演劇になったんですけど、当時は、座長が休むなんて考えられない世界やったから。

座長襲名の特別公演は好きなことやらしてくれって言って、花火を打ち上げたり、Xのコンサートみたいにしたい!って。イメージはロックのコンサート。ライブなんです。それを大衆演劇の和物と合体させたい。当時は身内だけでやってましたから、誰もあかんとは言わなかったんですけど、同業者からはやめとったほうがええってだいぶ言われました。煙がパーン出たり、銀吹雪がワーッ出たり。年寄りが死ぬって(笑)。そういうのがあんまなかった時代やったんで。

でも、とにかくやってみたいって言って、舞台照明の業者さん呼んできて、こういう照明につくりあげてくれって。そしたら舞台の電気容量が足らない、できないって言われたので、空き地に大きな工事用の発電機持ってきて、そこから電気取ってやりました。

会場は、その後、阪神・淡路大震災でつぶれた神戸の旧新開地劇場です。それまでは、ちっちゃい劇場しかまわらなかった劇団なんですけど、僕が座長になるからというんで、この業界でいうメジャーどころにボンと出たんです。

神戸の旧新開地劇場で座長になったときすでに、あくる年の正月公演は、東京の浅草木馬館でするって決まってました。最年少の座長が木馬館に出るって。道がずっとできてしまってたんで、一回座長になったら、なかなか抜けられないわっていうのがあったんですわ。いまのうち遊んどこと思って。

何でそんなスターダムがつくられていたんですか?

僕もあとから聞いたんですけど、山根演芸社の先代社長が、僕が若手当時からこいつは違うって思ってたらしいんですわ。いままでにはない逸材や言うて。こいつが座長になったら、この業界変わるでって。東京には東京の、関西には関西の大衆演劇の協会があるんですけど、関西の劇団の何者かわからん座長を正月公演にぶつけるって、東京の協会からしたらすごい博打やったと思うんです。でも東京の篠原の会長(先代)も、飛龍くんやったらいいって言ってくれた。

大衆演劇界をあげて、飛龍座長を盛り立てていこうという機運があったんですね。

おふたりともすでに亡くなってますけど、山根の先代社長も、篠原の会長も、唯一の共通点がうちの母親のファンやったんです(笑)。少なからずも、たぶん。だから、それもあると思うんですよね。早くに亭主亡くして、女ひとりで頑張ってきたんやからっていうのがあったんでしょう。

母・近江竜子。『女幡随院長兵衛』の舞台で。

うちの母親は、女形はしない。タチばっかりです。座長のときは両方やってましたけど、僕が座長になってからは女形はしなかったですね。その当時にも、ほかになかったらしいですよ。踊りしかやらない。お芝居も出るんですけど、そこまでやらない。

母親は花柳流やったんで、踊りはちゃんとできたんですよ。だからほんまに、一回、踊りはやらないかんって、関東公演のときに坂東流の先生のところに放り込まれて。所作をしっかりしなさいって言われたんですけど、先生が「この子には素質がない」って(笑)。僕には受け継がれなかったです。

(2020年8月29日 堺市自宅特設スタジオにて)

取材・文 佐野由佳

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