三河家諒のひとり芝居『おその』を観た。
緞帳が上がると、歌舞伎と違って、おそのが亀遊の死骸を発見するところから始まる。人物の演じ分けはもちろん、運びの緩急が鮮やか。思わず引き込まれる、三河家諒ならではの見事な舞台だった。
口上も圧巻だった。3回公演の最後の口上を聞いた。
今年は初代三河家桃太郎の百回忌、祖父三代目の五十回忌にあたる。来年(2025年)の1月16日は父・四代目の十七回忌になる。いろいろと重なることから追善公演を勧めてくれた先輩もいたけれど、自分が舞台に立ってこうして芝居をしていることこそが供養ではないかと思い、ひとり芝居をすることにした。
20歳の頃は女優がどんなにがんばっても主役を張る事はできなかった。男性の役者がステーキなら、女優はしょせん添えてあるキャベツの千切りのようなもの。でもだったら、「ステーキよりおいしいキャベツになってやるッ!!!」。以来、クソッ、クソッと自分を奮い立たせながらずっとやってきた。
その当時、よく励ましてくれたひとりが三吉演芸場のお母さん(本田玉江)だった。この、三吉の舞台でしっかりと芝居をすることがお母さんとの約束だったと話しながら、三河家諒は言葉を詰まらせた。
4年前、50歳で癌をわずらい、ひとつ間違えばもう舞台に立てなくなるかもしれないと思い詰めたこともあっただろうに、九州にお墓詣りに行き、ひいおじいさんや父のお墓に向かって「いま私を殺したら、三河家が絶えるぞ」と言ったという。もらい泣きしかけていた客席も大笑い。
舞台を休み療養に励んでいた日々の中で、女優がやりたいという思いをより一層強くした。脚本を書くことも演出をすることもおもしろい。それでもやはり、自分は演じる女優でありたい。「今日あって、明日なき命」という、芝居にもよく出てくる台詞の意味を身をもって思い知った。あと何年舞台をやっていけるかわからないが、自分はずっと女優であり続けたい。
これまで、おそのを演じたのは一度きり。ましてや、ひとり芝居は今回が初めて。有吉佐和子の『亀遊の死』をもとに自分で脚本を書いた。
口上の最後で三河家諒がいたずらっぽく「ネタばらしをしますと」、とラストシーンの台詞について話し始めた。有吉佐和子の原作とは変えたという。
「苦しさゆえに身を投げた、貧しさゆえに身を売った。この先本当に時代が変わって、いい世の中になったそのときには、この場所も違う形で打ったり投げたり、人々の歓喜が響き渡るような、そんなところになってくれるといいのにねえ」
おそのが勤めていた港崎(みよざき)遊廓があった場所が今は横浜スタジアムになっていることを知って、三河家諒が書き加えた。身を「売ったり」していたところが、球を「打ったり」するところになったというわけだ。身を「投げる」のではなく、球を「投げる」。ゆくゆくは野球場になるということを、おそのさんが予言していたかのようでおもしろいでしょうと言いながら、客席ギリギリまで乗り出してきて「天才だろッ」と言うドヤ顔のかわいらしいこと。
遊廓というのは華やかなようでいて、ひとつ裏を返せば悲しみがあふれる場所なのに、今こうやって横浜スタジアムになって、ワーキャー歓声があがっている。そういう時代になったということを、岩亀楼の碑がある現地まで足を運んでみて、しみじみと思ったという。
上演するにあたって、幕末のことや遊廓のことなども改めて調べ直した。名優の娘であることにあぐらをかいたりはしない。じつに努力の人なのである。
亀遊のような女性がいたからこそ政治が動いたということは歴史のなかで実際にあったこと。そういう女性をこそ演じていきたいと三河家諒は言った。もうすぐ芸歴40年。正直、どうして男に生まれなかったんだろうと思ったこともあった。でも、今になってみれば、女でよかったとつくづく思う。年齢を重ねるにつれ、若いときにはなかった感性が身についてくる。まだまだ勉強の途中ではあるけれど、女優だったからこそ、もっと勉強をしなれけばと思うことができた。女性をテーマにしたひとり芝居を来年からも続けていきたい、と口上をしめた。
三河家諒の舞台を観ると清々しい気持ちになる。それは、三河家諒という人が、ただ、ただ、いい舞台を演じたいということだけを思ってまっすぐに生きてきた、その道筋の美しさが客席にも伝わってくるからだと思う。はかない生涯を終えるしかなかった女性たちを演じながら、自身がクソッと涙をこらえた日々を重ねたこともあったのではないか。現代を生きる客席にいる私たちの日々にも、クソッと思わせられることは残念ながら皆無ではない。朝ドラ『虎に翼』が描いた不平等はなくなってなどいない。大衆演劇の世界ともなればなおさらだ。
汚いことやズルいことをせず、悔しさを他にぶつけるのではなく、しっかりと内にためて地道に力を蓄えてきた。その成果は、とっくの昔から幕内はもちろん、大衆演劇ファンの心もしっかりとつかんできてはいるが、この『おその』という舞台こそ、三河家諒が歩んできた女優としての道のターニングポイントになるに違いない。「五十、六十(歳)はまだ鼻たれ」と言われる歌舞伎役者に比べて、大衆演劇の役者はゴールが早すぎるきらいがある。「目指せ、草笛光子」と三河家諒も言っていたが、年齢を重ねれば重ねるほど味わいが深くなるのは、演劇のジャンルが違っても同じはず。若いということがどうしても好まれがちな大衆演劇の世界だからこそ、六十を過ぎても、七十になろうとも、三河家諒には舞台の真ん中に立っていてほしい。
送り出しで、「三河家さんの涙に泣きました」と伝えると、後ろに控えていたスタッフまで爆笑。精いっぱい生きている人の輝きを浴びて、背筋が伸びる思いがした。
(三吉演芸場 2024年12月22日)
取材・文 カルダモン康子