飛龍のみならず、近江のお母さんのこと、劇団についてのこと、思い出せばキリがない。
その中で、忘れようとしても忘れられないのは、飛龍と私が最初に会った新世界の仕事場でのことだ。
近江竜子が、唐辛子のように髪を真っ赤に染めた少年を仕事場に連れて来た。
なんでも、大分別府の公演地で「ドロン」したのを漸く連れ戻したから、社長(私の親父のことだ)ちょっと言ってやってくれ、ということだった。
親父がとても買っていた、近江竜童だった。
私は、踏み出した社会人生活の足元が泥んで、親父に無理を言った挙句、仕事場に出入りを始めた頃だった。その時期には今のような数の劇団も公演先も確保していない、小さな存在だった山根演芸社に自分の居場所を求めようとしていたのだ。
自分に較べれば、竜童と私の方が歳は近い。
お前、話を聞いてやれ、と思わぬお鉢が回って来た。
君、どうするつもりなんや?
ロックバンドをやります。
それで?
一年で東海道を東に行って東京で成功します。
そんな簡単には行かんやろう、と普通に私は考えた。
そこで私は言った。
「ロックの世界で成功するのも良いけど、それは大衆演劇で天下取ってからでもええんやないか?だって、大衆演劇の舞台は何でもありやで。何をやってもええんやで。せやから、な?」
そして付け加えた。
「君が頑張る限り、俺もやり続けるから」
つまり、それが約束だった。
それが、この30年余りの原点だった。
お陰様で多くの役者さん、座長さん、劇団さんとお付き合いし、浅からざる縁を結んで、今日、私は生かされている。
それでも、共に舞台に床を延べ、眠くなるまで話した役者は、近江飛龍の他にはいない。
間もなく訪れる、飛龍座長生活30年の節目。
それだけは何とかして良いものを作り上げる力になりたいと思っている。
なぜなら、近江飛龍こそが、悪路に次ぐ悪路だった旅芝居の道を、ここまで共に歩いて来た、私の同伴者だからだ。